考えることは人間にとって強力な武器。あまりにも強力すぎるので、それは時に僕たち自身を傷つけます。
僕たちは”考えるからこそ不自由になる”ことがあるのです。問題が生じて嫌な気分になったとき、何とか解消しようと考え悩むことは、その嫌な気分に行動をコントロールさせているようなもの。
僕らには「嫌な気分のまま行動する」という自由がある。嫌な気分は解消する必要はありません。
思考がウソ・妄想を真実にしてしまう
たとえウソでも僕たちはそれを真実にする。
以前、あるセミナーでウソをついたことがあります。といっても、ちょっとした体験を参加者にしてもらうためのものでした。どんな嘘だったかというと、
このセミナー会場の出入口ですが、ちょうど皆さんが帰る頃に大きな荷物の搬入が始まるらしいので使えなくなるそうです。なので、表から出るのではなく裏から出るようにしてください。具体的な場所は後でお伝えしますね。
です。セミナーの主催者からこう告げられれば、多くの人は本当だと思いますよね。実際、後で挙手を取ってみたらほとんどの人が信じてしまいました。(もちろんちゃんとネタバレしましたが)
これはとてもおもしろい現象だと思うのです。参加者にとっては、それがウソと分かる瞬間まで、会場の入口が使えなくなったことは真実に等しいものだったのです。本当は全く違うのに。
僕たちは実際にそれがどうなっていようとも、シチュエーション次第では言葉(=思考)によって真実を作ってしまいます。脳内に。
思考を現実と重ねてしまうと…。
思考によって作られた世界=真実。
このなってしまうと、僕たちの行動は言葉によって作られた世界に合わせたものに変容します。本当は今日は晴れなのに、夕方から土砂降りの大雨だと信じこんでしまえば、大雨を想定して傘を用意するわけです。
こうして僕たちは自分で作った物語の中にどっぷりと入り込み、物語の外(つまり思考によって作り出した世界の外)に出ることができなくなります。物語の外にも世界があると、想像すらできません。漫画や小説の登場人物が、読者の存在を認識できないようなものです。
「言葉(思考)を使って自分で作った物語」と「自分にとっての世界」が一致してしまった状態を、「認知的フュージョン」と呼びます。この状態に嵌ってしまうと、僕たちは物語の登場人物となり、行動もそれに沿ったものになります。
漫画「ドラゴンボール」を知っている方は、その中でフュージョンという技が出てきたことを覚えているかもしれません。あれと同じです。作った物語と自分の世界とがフュージョンしちゃうのです。それが認知的フュージョン。
物語の登場人物として振る舞う僕たち。
さて、前回までは欲求の話をしていました。そして今回、欲求の取り扱い方の話をします。欲求の取り扱い方を知るにあたって、認知的フュージョンと呼ばれる状態を、何となくでも理解しておくことが解決の糸口となります。
前回の復習になりますが、何かの出来事が起きて、それによってある一定方向の動機付けが成立した場合、僕たちの思考もそれに沿ったものになっていきます。
※前回の記事は下記になります
動機付けに沿った思考は、動機付けに沿った”真実もどき”、つまり物語を作ります。例えば、前回出した例ですが、ネット上の書き込みをみて反論したくなったとしたら、
- 反論することに伴う嫌な変化を取り除く(間違っているのは自分ではなく相手だ…だから反論しても大丈夫、等)
- 反論することに伴う好ましい変化を生じさせる(反論することで自分の考えが正しいことを示せる、等)
といったように思考することでしょう。その思考は、そのまま真実もどきの物語となり、その物語の登場人物たる僕たちは物語に沿った行動を選択します。
この物語が真実であると確信している程、認知的フュージョンに陥ります。物語の外の世界があるとは、想像すらできない状態です。
考えるからこそ不自由になる
考えることで深みに嵌る。
では、物語と自分の世界を一致させることで、なぜ僕たちの行動は物語のコントロール下に置かれてしまうのでしょうか?
ここでも鍵となるのは「動機付け(確立操作)」です。物語そのものが、僕たちの動機付けとして機能しているのです。
先ほどの例で言えば、”間違っているのは自分ではなく相手だ”という物語は、僕たちの反論するという行動を更に動機付けます。”反論することで自分の考えが正しいことを示せる”という物語も同様です。
出来事よって動機付けが成立すると、動機付けに沿った思考が物語を作り、物語が更に動機付けを強めます。この奇妙な循環は、僕たちが物語の中にとどまり続けることを強く促します。
物語は僕らにとってあまりにも強大だ。
入り込んでしまった物語が極端にポジティブなものである場合、僕たちは現実的なリスクを全く考慮しない行動を選択する傾向が強まります。気が付くと、大きな問題を抱えてしまった…なんてこともあるかもしれません。
反対に苦痛を伴うネガティブな物語である場合、その物語の登場人物として対処可能だと思えるなら、攻撃的な行動、あるいは我慢して耐えるといったことを選択するかもしれません。
対処できない思えるほど物語が強大な場合、物語が生じるような場面を回避したり、いざ生じてしまったら逃避することを選択します。
いずれにせよ、認知的フュージョンの状態に嵌っている限り、僕たちにとってその物語はあまりにも強大なものなのです。
行動を通して世界をみよう。
僕たちが物語の中から抜け出し、現実に沿った選択をしたいのであれば、自分自身の思考の中で起きていることではなく、自分と環境との相互作用によって起きていることに目を向けてください。
僕たちと僕たちの現実とを繋げているものは「行動」です。僕たちが現実を認識するためには、「行動を通して世界を見る」ことが必要です。
行動を中心に据えて現状(現実)を捉えてみることで、物語の中にいる自分を、物語の外から見ることができます。それはまるで、漫画や小説のストーリーを分析し、これからどんな展開になるんだろう…と想像するようなものです。
思考(物語)と少し距離を置いてみるのです。その立ち位置から物語を見ている瞬間、僕たちは認知的フュージョンの状態から脱することができます。「脱フュージョン」といいます。
嫌な気分でも行動は選べる、だから僕らは自由だ
嫌な気持ちのままでも、僕たちは行動を選ぶことができる。
そういった見方ができるようになっても、尚、僕たちの一部は物語の中にいます。相変わらず物語の促す方へと選択したい自分を自覚することができるでしょう。
ただ、いままで物語100%だったものを、例えば50%程度に減少させることができます。あるいは80%かもしれません。ケースバイケースです。大切なのは、そこで生じた余力が、僕たちの自分の意図に沿った選択を可能にしてくれるということです。
意図を選択に反映することは、リソース不足の不自由さを解消するために欠かすことのできないものです。
元々の話は、欲求の働きが強すぎるが故に、十分な時間を掛けてリソー不足の問題に取り組めない、ということでした。欲求の働きが強すぎるというのは、つまり認知的フュージョンによって物語に沿った選択しかできない、あるいは物語が生じる場面を避けるような選択しかできない、ということです。
脱フュージョンすることにより、「妥当な時間を掛けて取り組むという意図」を選択に反映することができるようになれば、リソース不足は自由を阻むものではなく、自由を獲得するためにクリアすべき単なる課題となります。
行動を通して現状を見る、そしてより適切な選択が可能であることに気づく。
認知的フュージョンから抜け出すというのは、要はこれだけのことなのです。これだけのことなのですが、これが捉えづらく難しいんですね。少し、僕の体験をシェアしたいと思います。
体験談とその分析
もう年単位で前のことですが、ネットで嫌な書き込みを見ました。こんな体験は、割と普通に転がっているわけで、大抵は「ふーん」とスルーしてしまいます。でも、その時は書き込みの内容が僕にとって無視できない内容だったため、どうしても気になってしまいました。
しばらくはそのことで頭がいっぱいです。気づくと、そのことについて考えてしまいます。その書き込みによって見事なまでに動機付けされてしまい、僕の思考は動機付けされた方向にどんどん加速していきました。まるで思考の濁流に溺れているかのようです。
ふと、僕は僕自身が作った物語に囚われていることに気づきます。ハッとして、行動を通して自分の現状を分析することにしました。
その時、僕が実行したい行動は「反論すること」であり、その結果、得たい変化は「相手が自分の意見を変え、僕の意見に同意すること」でした。
その変化を得たいがために、反論するという行動への動機付けを強めるように、次から次に思考が生じていました。具体的には、相手の意見の不備を見つける、自分の意見の正当性を見つける等です。
この思考の内容にはさほど意味がありません。いえ、意味はもちろんあるのですが、反論するという行動の動機付けに使えるのでそういった考えを利用しているだけなのです。
それが行動を通して現状を捉えることで見えてきた、僕が嵌り込んでいた物語の様相でした。
この見方を獲得した瞬間に、脱フュージョンが始まります。
しかし、まだ気分がスッキリしません。フラストレーションを感じて、反論したい欲求が収まらないのです。苦痛を解消できないでいることに、僕はストレスを感じました。
実は、この苦痛を解消できないことに拘るのが第2の罠です。苦痛をもたらす思考や感情は、解消する必要はありません。苦痛を抱えたままでも、僕は自分の意図にそって選択することができるからです。
そのことを思い出した時、僕の中で物語の存在感が急速に小さくなっていきました。
といっても消えてしまうわけではなく、相変わらず物語がもたらした思考と感情には嫌な感じがします。ただ、それは僕の行動に影響を与えるほどの力は、もう持っていませんでした。
僕は、自分の意図を反映させた選択を取る余力を手に入れたわけです。
この体験のポイントは2つです。
- 行動を通して僕自身が嵌り込んでいる物語の様相を分析した。その瞬間に、物語と距離を置くことができ、外から俯瞰する立ち位置を獲得した。
- 苦痛の解消に拘っていることに気づき、苦痛を解消することを止めた。
1つ目のポイントは、ここまでずっと書いてきたことなので省略します。2つ目のポイントはまだ書いていませんでしたので、少し解説します。
悩みは解消せずに、それを抱えたままでも行動する。
僕たちが作り出した物語は、しばしば僕たちに苦痛を感じさせる思考や感情をもたらします。苦痛を感じるのは当然嫌なので、それを解消しようと躍起になります。
ところが、その苦痛を解消しようとする努力そのものが、僕たちをますます物語の中へと留めてしまうことになるんですね。
苦痛の源泉は物語です。苦痛を解消するということは、物語について考え続けることに他なりません。苦痛と戦い続ける限り、僕たちは物語の登場人物としての振る舞いを強いられてしまうのです。
思考や感情は解消する必要はありません。なぜなら、それを抱えたままでも僕たちは自分にとって重要な選択を選ぶことができるからです。
そのことに気づくことこそ、ここ数回でお伝えしてきた欲求を上手く取り扱うきっかけになるんです。
意図を選択に反映させることができれば、リソース不足に対しても、戦略的に計画的に取り組んでいくことができるようになります。かくして、僕たちはリソース不足がもたらす不自由さに挑むことができる、というわけです。
「自由への挑戦」ですね。