言わずと知れた名著「7つ習慣」。
読んでみて感銘を受けて、実践してみたいと思うわけです。
- 作者: スティーブン・R・コヴィー,フランクリン・コヴィー・ジャパン
- 出版社/メーカー: キングベアー出版
- 発売日: 2013/08/30
- メディア: ハードカバー
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例えば第1の習慣は「主体的である」です。
これ実際にやろうとしてみると分かりますが「これって主体的なんだろうか?よくわかんないな…」となってしまうことが多々あります。
主体的という言葉の表面的な意味は分かりますが、7つの習慣でいうところの「主体的である」を実践するには、もう少し考察が必要なようです。
実践するなら行動科学(行動分析学)の知見を利用しない手はありません。
この記事では「第1の習慣 主体的である」を実践するために、具体的な行動へ落とし込むことを目的として書きました。
耳障りの良いスローガンではなく、実行可能な行動をお伝えします。
まずは第1の習慣を試してみたい定着させたい…でも実践できているかどうか自分でもよく分からないという方のヒントになれば嬉しいです。
7つの習慣から読む「主体的である」の定義
反応的な生き方:僕たちに自由は無いのか?
何かについて理解したい時、その反対の概念のことを考えると分かりやすくなることがあります。
それは「主体的である」についても同じことがいえます。
つまり、主体的とはどういうことかを理解したければ、その反対の概念である「反応的」について考えてみるといいでしょう。
反応的な生き方とは、僕たちの行動や振る舞いが外部の刺激によって決定されるというものになります。
外部の刺激とは遺伝であったり、環境であったり、過去の経験のことを指しています。
それら外部の刺激が与えられると、僕たちは自動的に反応してしまい、そこに僕たちの意思を介在させることができません。
つまり外部からの刺激に反応するしかできないのです。
しかし7つの習慣は、反応的ではない生き方ができるとしています。
それこそが「主体的である」ということ。
では主体的であるとは具体的にはどういうことなのでしょうか。
ヒトには「選択の自由」という武器がある
反応的な生き方は「外部の刺激 → 反応」となり、僕たちに自分の反応を選ぶチャンスがありません。
しかし僕たちが主体的であれば、刺激と反応の間に「選択の自由」を得ることができます。
つまり「外部の刺激 → 選択の自由 → 反応」となるのです。
主体的であることの要はこの「選択の自由」にあります。
選択の自由を実現するのが、人間に与えられた能力である「自覚」「良心」「想像」「意志」です。
4つの能力それぞれの簡単な説明を、7つの習慣から引用します。
自覚は、自分自身を客観的に見つめる能力だ。
想像は、現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力である。
良心は、心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識し、自分の考えと行動がその原則と一致しているかを判断する能力である。
そして意志は、他のさまざまな影響に縛られずに、自覚に基づいて行動する能力である。
実際に主体的であるためにはそれを「行う」必要がある
能力とは最終的に行動として表現されます。
能力が高いのであれば、行動の質が高くなったり、行動の量が増えたりするのでしょうし、能力が低ければその反対です。
4つの能力を使って主体的であるためには、能力が反映された行動を行う必要があります。
では、4つの能力が具体的にどんな行動として表現されればいいのでしょうか。
ここから行動科学を通して、第1の習慣である「主体的である」を実行可能なところまで落とし込んでいきます。
行動科学で「選択の自由」を実行可能な行動へ落とし込む
7つの習慣によれば主体性の本質とは次のように定義されています。
約束をし、その約束に対して誠実な態度を取ることが主体性の本質
自覚・良心・想像・意志の4つの能力を十全に発揮することで主体性の本質が満たされ、僕たちは主体的であることができます。
このことを念頭におきながら4つの能力について説明します。
自覚
反応的な振る舞いは、外部の刺激に対し自動的に行動が決まってしまうような状態です。
一方、主体的な振る舞いは、刺激を受け取った後に自らした選択に基づき行動します。
この選択の余地は僕たちの自覚によって初めて生じます。
反応的な振る舞いには2つの種類があります。
反応的な振る舞い1:環境によって行動が決定する
1つは環境によって行動が決定してしまうもの。
例えば、喉が渇いている時に目の前に冷たい水があれば、それを手にとって飲むことでしょう。
飲むという行動は、その直後の「喉が潤う」という結果によって僕たちに定着します。
そして「喉が乾いている」「水が飲める状況にある」という外部刺激が、飲むという行動を喚起します。
僕たちがごく自然に行っている多くの行動は、この原則に従ったものです。
この種類の行動が問題となるのは、行動によって依存的な結果がもたらされる場合です。
依存的とは、結果を得たことが「その結果を更に求める」ように作用するということです。
例えば、美味しい食べ物を食べたら、素晴らしい味という結果を得られることでしょう。
食べたものが素晴らしい味だったなら、またそれを味わいたいとなるはず。
それは時に、とっくに満腹になってるのに食べることを止められず、食べ過ぎて肥満になるという結末をもたらします。
依存的な行動の構造を自覚すれば工夫の余地が生まれる
これが反応的な振る舞いの1つで、環境要因と個人要因(遺伝的要因)の影響で不適切な行動を繰り返していることになります。
この行動を変えるためには、環境要因に手を入れることになるのですが、そもそもどんな結果が自分にとって依存的に働いているのかを自覚しなければ、工夫の余地が得られません。
ついついやりすぎてしまう行動があって、人生に損失をもたらしているようであれば、どのような結果が依存的に作用しているのかを見極めてみましょう。
僕自身の例ではネット小説などが該当します。
読むと面白いのですが、面白いが故に次の話を読みはじめてしまうのです。
1つの小説を全て読みきったとしても、次の小説を探し始めます。
気がつくと数時間経っていることもあり、仕事をなかなか始められません。
面白い小説・ストーリーは、僕にとって依存的に働いていますし、状況によっては損失をもたらしています。
そのことに気づくことが「自覚」といえるでしょう。
反応的な振る舞い2:現実と思考の融合がもたらす硬直的な反応
もう1つの反応的な振る舞いには思考が影響します。
実際には起こっていないことを頭の中に作り出し、想像上のそれを現実と同じように扱ってしまいます。
例えば芸能人の不倫等がしばしば報道されますが、その報道された芸能人のことをどのように評価するでしょうか。
異性関係にだらしない、配偶者は悲しんでいるだろう、不誠実な人だ等と想像するかと思います。
その評価はごく当たり前のように感じられ、だらしないところや不誠実なところを実際に見たわけでもないのに、まるで疑うことがありません。
会社や学校で話題にのぼれば、無自覚な芸能人への評価に基づき発言することでしょう。
考えたこと=現実という構造は、自分がその考えを作り出していることに「自覚」しない限り、行動や振る舞いも無自覚な考えに沿ったものになりがちです。
他の行動を選ぶ余地がありません。
これも反応的な振る舞いの一つといえるでしょう。
「実況者としての自分」が思考を自覚するきっかけとなる
このような無自覚な思考を自覚するには「自分を実況する自分」を作ってみるといいでしょう。
やることは簡単で、いま自分の考えていることを実況するだけです。
例えばいま、この文章を書いている僕は次のようなことを考えています。
「何を考えているんだろう?」
「いまタイプミスした」
「何も思い浮かばない…と考えている」
「これくらい書いておけば例になるだろうか」
取り留めのないことが浮かんでは消え、浮かんでは消え…僕たち人間の思考はこのようになっているのです。
瞑想しながら思考の実況中継をしてみたり、頭に浮かんだことをただ紙に書き出してみたりすると、無自覚な思考を自覚するのに良い訓練になります。
当たり前のように捉えていること程、思考を実況中継してみて「自覚」を促してみると主体的に振る舞うためのきっかけが得られます。
良心
刺激と反応の間に「自覚」というプロセスが入ることで、良心が機能する余地が生まれます。
つまり良心という能力を使う前提には自覚が必要だということですね。
しかし良心とは具体的にどういったものなのでしょうか。
分かるような分からないような…。
感情や欲求のままに振る舞うことに、どこかひっかかり覚える時
良心の呵責という言葉がありますが、良心とは感情や欲求のままに振る舞うことに、どこかひっかかりを覚えるようなもののことです。
正しくないことをどことなく知っているのです。
それは「本来取るべく選択を避けていることを自覚しつつある状態」といっていいでしょう。
例えばあなたが親しい友人を喧嘩したとします。
友人の行為を裏切りのように思え、とても傷つき同時に腹立たしく感じています。
しかし自分の思考を自覚したあなたは、ある種の思い込みに囚われている可能性に気づきます。
ただ感情的には依然として腹を立てていますし、友人を責め立てたい思いでいっぱいです。
本来取るべき選択を避けるのは、このような状況の時です。
自分は間違っていないことにして友人を責めるという欲求に従うのか、自覚によって得た気づきから自分に間違った点を謝罪し、建設的に話そうと試みるのか。
良心に一致した「正しい行動」を選ぶ可能性を作る
感情や欲求に逆らって正しいことをやるのは難しいことです。
先のほどの例では怒りという感情に逆らうことをあげましたが、不安や恐怖、苛立ち、失望感、負担感、孤独感などが僕たちの正しい選択を阻むこともあります。
しかしながら、自覚によって良心の働く場を作り出せれば、自分が間違った行動を選択していることを知ることができます。
自分の選択が間違っていると気づくことができたなら、本来正しいと思える建設的な行動を選ぶ余地も生まれます。
正しさの持つ危険性を知っておこう
ところで「正しい」は時に危険なことがあります。
正しさは人それぞれが持つ価値基準によって異なります。
ある人にとって正しいことも、別の人にとっては正しくないことだったりするのです。
正しさに対する確信は対立を生む可能性があることを知っておいてください。
これは間違いないだろうと正しさを思い込んでいる時程、そしてそれが対立を生んでいる時程、正しさに対する疑いも必要です。
次の言葉があります。
対立する相手にフェアであれ
正しさに基づき行動する時、それに対立する考えに対してもフェアな態度を取るように心がけておきましょう。
想像
僕たちの持つ想像力は、選択の自由を作るための武器であり、同時に足かせでもあります。
想像が足かせとなるのは、無自覚な思考で作り出した仮初の現実に反応的に従っている場合です。
これは「自覚」のところで説明しました。
ここで取り上げたいのは想像のもつ肯定的な面です。
僕たちは想像することで、いまここの環境に存在しない結果や状況を頭の中に作り出すことができます。
良心に従った未来を作ることもできますし、その場の感情や欲求に従った未来を作ることもできます。
大切なのは良心に沿った正しい行動を選んだ自分を想像することであり、その行動の先にある未来を想像することであり、また正しい行動を”選ばなかった”自分や未来を想像することです。
可能な限り具体的に、未来に辿り着くプロセスまでを想像してみてください。
良心に従い本来取るべき行動を選ぶことを約束した時、想像という能力は僕たちの主体的な振る舞いの実現に貢献したことになります。
意志
強い意味を持とうとするのは不誠実な態度
意志とは「約束を守る」を実践することです。
意志という言葉からイメージするのは「約束を守るよう強い意志を持つ」といったようなものだと思います。
しかし約束を守る、つまり本来取るべき行動を実際に行うには、意志の強弱はあまり関係がありません。
というよりも意志の強弱の問題にした瞬間に、約束を守ることに対して不誠実な態度を取ることになります。
行動科学(行動分析学)から分かることは、僕たちの行動は僕たちの意志とは関係なく決まることにあります。
これは主体性や選択の自由というテーマと相反した、決定論的な考え(僕たちに選択肢はないという考え)のようにも思えます。
実際、僕たちの行動はやはり、いま僕たちがおかれた環境の影響を受けてしまうのです。
約束を守るしかない状況を作る工夫こそが「意志」の実態
では良心に従った、本来取るべき行動を選ぶという約束は、どのようにして守ればいいのでしょうか。
答えは簡単です。
意志の強弱に関わらず約束を守れる状況を作ればいいのです。
これはP/PCバランスにも通じる考え方です。
成果(P)が行動で、成果を生み出すリソース(PC)が行動を取り巻く環境。
行動を得たいのであれば、その行動が得られるような環境を作りましょう。
そこに工夫を凝らしてこそ、約束に対して誠実な態度を取っていると言えます。
尚、P/PCバランスについては下記の記事で取り上げていますので、こちらも読んでもらうと理解が深まります。
考えることも行動の原則に従う
7つの習慣には次の記述があります。
「7つの習慣」とは、この新しいレベルの思考である。
原則を中心に据え、人格を土台とし、インサイド・アウト(内から外へ)のアプローチによって、個人の成長、効果的な人間関係を実現しようという思考である。
ここまで取り上げてきた4つの能力についての理解は、その新しいレベルの思考の一部といってもいいでしょう。
最後に触れておきたいことは、では主体的であるための新しいレベルの思考をどのように実践するかなのです。
新しいレベルの思考が定着するための2つの条件
一般的には思考は行動の前提と解釈されています。
○○しようと考えたから、実際に○○した。
僕たちの行動は、僕たちの意図に基づいたものだという見方です。
しかし行動科学においては「考えること」も行動なのです。
ありとあらゆるヒトの活動は行動として定義することができます。
考えることが行動なのだとしたら、その考えるという行動の原因は何なのでしょうか。
全ての行動は「強化の原理」という原則に従っています。
強化の原理を簡単に説明すると、メリットの伴う行動は維持されるし、メリットの伴わない行動またはデメリットの伴う行動は無くなっていきます。
つまり「新しいレベルの思考という行動」があなたに定着するためには、次の2つを満たす必要があります。
- 新しいレベルの思考を”する”とは、具体的にどんな行動なのかを知っている
- 新しいレベルの思考を”した”時に、何らかのメリットが伴う
実践するための最低限の条件は「具体的な行動」に変換できること
具体的な行動に落とし込めないものは、実行することができません。
新しいレベルの思考を実践するための最低限の条件は、それを具体的な行動に変換できることです。
そのためのヒントはこの記事で書いてきました。
例えば自覚するための具体的な行動として「思い浮かんでくることをそのまま紙に書き出していく」というものがあります。
思いつくままに喋ってみる、瞑想しながら頭の中を実況中継してみる、というのもいいでしょう。
他の3つの能力についても同じです。
良心であれば「この選択は本当に正しいのだろうか?」とか「もし自分が間違っているとしたらどういうことだろうか?」という質問を自分に投げかけてみるといいでしょう。
”する”ためには、まず実行可能な行動へと変換ことです。
行動内在的なメリットが伴うことで思考は定着する
次に必要なのは”した”時にメリットが伴うことですが、考えることのメリットとはなんでしょうか。
これが外形的な行為であれば分かりやすいのです。
水を飲むという行為には、喉が潤うというメリットが伴います。
友達に話しかけるという行為には、友達の注目や反応というメリットが伴います。
猛暑日にクーラーの効いた喫茶店に入る行為には、暑さを避けられるというメリットが伴います。
しかし思考にはそういった分かりやすい変化はありません。
どう考えればいいのでしょうか。
実は思考と同じようにメリットの分かり難い行動があります。
例えば海を眺めながらボーっとするとか、お風呂に入っている時に鼻歌を歌う等。
これらの行為には第三者からみて分かりやすいメリットは見当たりません。
本人にしか分からないような感覚的な何かがメリットになっているのです。
このようなタイプのメリットを「行動内在的なメリット」といいます。
それを行うことそのものがメリットである、と考えてもらってもいいでしょう。
思考もこれと同じです。
つまり考えることそのものに感覚的なメリットが伴うかどうか。
思考が定着する鍵はこれです。
7つの習慣への納得感から始まり、良い体験を得ることで定着する
では7つの習慣が教えてくれる「新しいレベルの思考」に感覚的なメリットが伴うかどうかは、何で決まるのでしょうか。
難しい話を端折っていうなら、7つの習慣への納得感であったり、読んでみて主体的でありたいと思えることであったり、あるいは反応的な生き方から抜け出したいと思えること等が、新しいレベルの思考の実践にメリット感を伴わせます。
加えて、7つの習慣に沿って実際に行動を変化させた時に、良いと思える体験が得られたなら、その良い体験と7つの習慣とを関係させて捉えるようになりますので、それもまた「新しいレベルの思考をする」ことにメリット感を伴わせる要因となるでしょう。
7つの習慣に取り組み始めるためには前者が、中長期的に取り組み続けるためには後者が必要となります。
この記事を読んで、あるいは7つの習慣を読んでみて、何かポジティブな感想を持つことができたのであれば、ひとまずは取り組んでみるのが良いのではないかと思います。
まとめ
本記事でお伝えしたことは次の3点です。
- 反応的な生き方とは「刺激 → 反応」となり自らの選択の余地がない生き方である。主体的な生き方とは「刺激 → 選択の自由 → 反応」となる生き方。選択の自由は「自覚」「良心」「想像」「意志」の4つの能力によって実現する。
- 4つの能力についての解説。
- 自覚とは環境のもたらす依存的な行動と結果への自覚および無自覚な思考への自覚のこと。
- 良心とは感情や欲求のままに行動することへのひっかかりや、本来取るべき選択を避けていることに気づくこと。
- 想像とは良心に沿った行動を選んだ自分、またその先の未来、およびそれを達成するプロセスを頭の中で作り上げること。
- 意志とは本来取るべき選択が実行しやすくなる工夫をすること。
- 主体的であるためには、4つの能力を土台とした新しいレベルの思考を”する”ことである。最低限必要なのは、4つの能力を具体的な行動に変換すること。またやってみるために必要なのは、7つの習慣への納得感や意欲である。