初級者・中級者レベルに到達するのに比べ、あることのエキスパートになるのは簡単ではありません。その理由はエキスパートになるためのトレーニングをマニュアルなどで形式化するのが難しいから。エキスパートをエキスパート足らしめているのは、彼ら・彼女らの持つ暗黙知にあります。
ですので、エキスパートの持つ技能等に注目するのではなく、暗黙知の獲得過程に注目して、トレーニングを構成するのがいいのではないでしょうか。
課題分析すれば初級者レベルに到達するのは簡単
技能の獲得に行動分析学は役に立ちます。とりわけ初級者・中級者レベルに到達するのは、さほど難しいことではありません。
応用行動分析学に「課題分析」という手法があります。課題分析とは、ある活動について細かく具体的な行動に分解し、改善すべき行動を見つける方法です。例えば「ご飯を炊く」という活動を課題分析したら次のようになります。
- お米を軽量してボウルに入れる
- お米を研ぐ
- 研いだ米を炊飯器に入れる
- 水を軽量して炊飯器に入れる
- 炊飯ボタンを押す
このようにすれば、ご飯を炊けない人に対して何ができるようになればいいかを具体的に示すことができます。
あることの初級者・中級者になるためには、すでにできている人の活動を課題分析すればいいのです。そうすれば自分が取り組むべき行動が容易に見えてきます。
しかし、問題は上級者・達人と呼ばれるレベルになる方法です。
上級者に到達する道は、初級者・中級者のそれに比べてなかなか見えてきません。上級者のやっていることを課題分析しようとしても、「センス」だとか「何となくこっちだよね」といった曖昧な表現になり、言語化が難しくなるからです。
それでもこれが目に見えるものであれば(スポーツ等)、まだ何とか課題分析できなくくはないのですが、デスクワークのように「頭の中」で処理されるものが増えてくると、ますます難しくなります。
優秀な人のパフォーマンスを学ぶのが難しい理由
知識には形式知と暗黙知というものがあります。
形式知とは文章や図表、数式等によって表現しやすい知識のこと。暗黙知とはその人が経験的に使っている知識だけど、言語化・形式化するのは難しいものこと。
例えば、ある問題をみて瞬間的・直感的に「答えはこっちだよね」と判断したとして、その判断に至ったプロセス(※後付の理由とは全く別物なので注意)を説明するのは困難でしょう。上級者レベルの技能はこの暗黙知によって成立している部分が多くなりますので、言語化してしまうとどうしても欠けてしまう情報が多くなりますし、その欠けている部分にこそ上級者を上級者足らしめている何かがあったりします。
以上のことを踏まえると、上級者レベルに到達するトレーニング方法を考えるにあたって、上級者のスキルそれ自体を分解して課題を見つけるのは、不可能とは言いませんがちょっと難しいのかもしれません。
ですので、少し別の視点が必要になってくるように思います。上級者を上級者足らしめているものが「暗黙知」にあるのだとしたら、その暗黙知の獲得にフォーカスして、トレーニングメニューを考えてみると良さそうです。
1. 仮のパフォーマンス指標を見つける
具体的なアイデアを4つ紹介します。
- 仮の成果・パフォーマンス指標を見つける
- 良いサンプルを大量に観察・模倣して内的な基準を上げる
- 曖昧に表現されたパフォーマンスを小さく分解する
- 1つの技能を小さく分解し、そのとんでもなく高いレベルを基準にする
まず1つ目の「仮の成果・パフォーマンス指標を見つける」について解説します。
例えば「メルマガで読者に届く文章を書きたい」と思ったとき、その指標として「メルマガの開封率」を使います。あるいは「eSportsのプロのようにゲームが上手くなりたい」なら、その指標として「プロ選手の勝率や戦績のステータス」を使います。
指標があることのメリットは、トレーニングについての試行錯誤を評価できるようになることです。
メルマガの例で説明すれば、どんな文章が読者に届く文章になるのかはよく分かりません。もちろん世の中にある様々な文章を書くためのノウハウを取り入れれば、今よりも上手くできるようになるような気もしますが、本当にそうなのかは分かりません。
ただもし開封率が以前より明らかに上がったのであれば、読みたいと思ってくれている読者が増えたと判断することはできそうです。どのような試行錯誤が上手くいっているのかを判断するための指標として「開封率」を使うわけです。
もちろんこの指標はスキルレベルを正確に反映したものではないかもしれません。
メルマガであれば、開封率に影響するのは文章ではなく「件名」の方かもしれません。だとすれば文章が「読者に届く」ようになっていなくても、開封率が上がる可能性があります。
eSportsの例でも、特定のステータスが改善したとしても、ゲームの特性とプレイの仕方とが偶々マッチしただけで、プロ選手のように上手くなったわけではないこともあるでしょう。
指標がスキルレベルを反映したものでない場合、見当違いの試行錯誤をしてしまうリスクがあります。
ただもしそうであったとしても、指標がないままに試行錯誤するよりは、何らかの指標があった方が具体的なトレーニングメニューを考えやすくなります。加えて、いままので自分の基準を越えようとする試みによって、「暗黙知を獲得するためのプロセス」を体験しやすくなります。
もし指標が誤っていたことが分かったなら、改めて指標自体を改善すればいいでしょう。闇雲にただ漫然とトレーニングするよりは、遥かに効果が出るはずです。
2. 良質なものを大量に模倣・観察する
続いて2つ目について解説します。
- 仮の成果・パフォーマンス指標を見つける
- 良いサンプルを大量に観察・模倣して内的な基準を上げる
- 曖昧に表現されたパフォーマンスを小さく分解する
- 1つの技能を小さく分解し、そのとんでもなく高いレベルを基準にする
何かを上手くやろうとするときに、部分的に自分のやっていることを自己否定することがあります。これではダメだ、もっと上手くできるはずだ、といった感じです。僕自身の経験でも、プログラミングであったり行動を分析する時であったり、あるいは文章を書く際にもそういった自己否定が生じています。
もしかするとそれは所謂「センス」と呼ばれるものかもしれません。プログラミングしたコードが、行動の分析内容が、書き上げた文章がなんだか「ダサい」と思えてしまうのです。
自己否定が生じた場合、僕たちはどう行動するでしょうか?
当然、ある程度は納得するまで改善に取り組むことになります。つまり僕たちは、自分が一定レベル以下のパフォーマンスしか発揮できていないことを自覚することさえできば、自然とそれを改善しようとするのです。
これは初級者であろうと上級者であろうともっているプロセスだと思います。ただ初級者と上級者とでは、自己否定が生じるレベルが段違いで違うだけです。
ですので、上級者になるためのトレーニングの1つとして考えられるのが、自己否定するための基準を上げていく方法が考えられます。自分の中にある「当たり前」の基準が上がれば、低レベルな自分自身の行動や成果物に対して自然とダメ出しができるようになり、行動の改善を後押しすることになるでしょう。
では、その「自分の中の基準」を上げていくにはどうすればいいのか。
これはもう単純に「良いサンプルをたくさん観察・模倣する」ことです。特に模倣が強力です。
プログラミングの世界では写経などといったりしますが、良いコードを真似て書くことを繰り返したりします。これは単純に書き方を覚えるという意味もありますが、それ以上に「良いコード」を何度も何度も自分に覚え込ませていくという効果が期待できます。行動分析学では「概念形成訓練」といいますが、自分の中に「良いコード」という概念を形成していく方法です。
模倣が難しい場合は、観察でも効果があります。
コーチングやカウンセリングといった分野では、なかなか同じ場面というのがありませんので模倣するのは難しいのですが、上級者のコーチングの場面を実際に見せてもらって学ぶことが可能です。
どういう場面で、どう行動し、それがどういう結果をもたらしたのか。そのサンプルが蓄積していくほど、自分自身の行動を自己否定するための材料も増えていきます。あのコーチだったらこうだったのに、自分だとこれか…という自己評価が生じ、行動を改善する圧力となります(もちろん萎えて挫折してしまうこともありますが)。
行動やパフォーマンスを改善する圧力が働けば、たくさん試行錯誤することになり、その過程で良質な暗黙知を獲得することになります。自分の中の基準を育てていくことで、上級者への道が開けてきます。
3. 求めているパフォーマンスを小さく分解する
3つ目のアイデアについて説明します。
- 仮の成果・パフォーマンス指標を見つける
- 良いサンプルを大量に観察・模倣して内的な基準を上げる
- 曖昧に表現されたパフォーマンスを小さく分解する
- 1つの技能を小さく分解し、そのとんでもなく高いレベルを基準にする
上級者のパフォーマンスから具体的に課題を見つけるのは難しいですが、抽象的な表現で曖昧に説明することは可能です。
例えば「美しい文章」だとか「説得力のあるプレゼンだ」等です。この曖昧で抽象的に表現されたパフォーマンスを、いくつかの要素に分解してみましょう。
試しに「美しい文章」はどんな要素によって構成されているか考えてみましょう。
・無駄な表現がない(必要最低限の文章) ・伝わりやすい ・文章の構成にリズムがある ・表現に統一感がある ・etc...
僕自身が美しい文章を書けないので、これであっているかどうかは分かりませんが(笑)、それは大きな問題ではありません。自分なりに美しい文章を構成する要素を導き出してみることが大切です。
もし全く思いつかないなら、少し情報収集をしてみるといいでしょう。美しい文章でググってみると、5-7-5のリズムで文を作るといい等が出てきて面白いですね。
何れにせよ、このようにして作ったパフォーマンスの「構成要素」を使って、自分が美しいと思う文章を説明してみるのです。表現の無駄のなさであったり、伝わりやすさであったり。
そうすると各構成要素の具体的な例が得られます。構成要素に分解された具体例は模倣しやすくなります。美しい文章を書けといわれても実践するのは難しいですが、この文章の「伝わりやすさの具体例」を意識して取り組む、のであればまだやりやすくなります。
まとめると、抽象的で曖昧なパフォーマンスを、いくつかの構成要素に分解し、実例を使ってそれぞれの構成要素を具体的に説明します。構成要素の具体例が得られれば、それを意図して取り組むことが比較的容易になります。
あとはそれを繰り返していくことで、徐々にこれまでよりも高いレベルで実践できる部分が増えていきます。
4. 小さく分解したスキルの”部品”のとんでもなく高いレベルを基準にする
最後のアイデアについて解説します。
- 仮の成果・パフォーマンス指標を見つける
- 良いサンプルを大量に観察・模倣して内的な基準を上げる
- 曖昧に表現されたパフォーマンスを小さく分解する
- 1つの技能を小さく分解し、そのとんでもなく高いレベルを基準にする
今回も「分解」を使います。3つ目のアイデアでは「曖昧なパフォーマンス」を構成要素に分解して、それを活用して上級者のやっていることを少しでも理解しやすくする方法でした。今回は「技能」を分解してみます。
例えば「ブログを書く」という技能で考えてみましょう。ブログを書くという行為が、どのような行為によって構成されているかを考えてみてください。
・テーマを選択する ・伝える内容を検討する ・文章を書く ・記事のタイトルを決める
こんな感じでしょうか。場合によってはリサーチや情報収集といった行為も必要かもしれませんね。
ここでやっていることは実は「課題分析」と同じなんです。ブログを書くという1つの技能が、どんな小さな行為の組み合わせによって実現されているかを考えています。
初級者向けであればこれでも十分ですが、上級者を目指すのであればここで終わってしまっては意味がありません。小さく分解された各行為の、とんでもなくレベルの高い状態を考えてみましょう。
例えば「テーマを選択する」だとどうでしょうか。多くの人が気になるテーマを選択するとか、少数の人しか関係ないけど関心は深いテーマを選択するといったようにすると、単に「テーマを選択する」とするよりはレベルの高いものになるはずです。更にもう少し高いレベルを想定してみれば「一部の人しか気にしていないテーマだが、潜在的には多くの人が必要としていること」とすることもできます。
他に「記事のタイトルを決める」も同様に「つい記事を開いてみたくなるタイトルを決める」であったり、更にレベルを上げて「興味がなかった人でもハッとなるようなタイトルを決める」などできるかもしれません。
このように、単に「ブログを書く」という大きな活動の高いレベルを考えるよりも、具体的で小さな行為の高いレベルを考える方が、自分の課題を認識しやすくなります。
自分で考えた高いレベルの行為が本当に正しいかどうかは、あまり気にしなくてもいいです。目的は暗黙知を獲得することですから、仮でもいいのでチャレンジすべき課題を見つけ、それをクリアするために、それまでやっていなかったことを実際に試してみることができれば勝ちです。
そのような試行錯誤による小さな成功体験から暗黙知は獲得できるのですから。
暗黙知を獲得するためのサイクルを作ることが鍵
まとめです。
本記事では、行動科学を応用したトレーニングについての考察と手法についてお伝えしてきました。行動科学に限った話ではありませんが、初級者・中級者向けのトレーニングと、上級者・達人になるためのトレーニングは、全く質の違うものになります。
初級者・中級者になるための課題は、具体化しやすいです。
例えば「ブログを書く」ことを考えても、初期段階で躓く場合、そもそも文章を書くことに慣れていないケースであれば、1〜2行程度、今日あったことを書くことから始めてみましょう、って感じでOKなわけです。
ある程度は書けるようになったけど、途中で何を書けばいいか分からなくなったり、書き始めればスムーズだけど最初の数行を書くのが大変といった感じであれば、おそらく「何を書くか考えること」と「文章を作ること」を同時にやろうとしているのでしょう。ですので、これを分割して取り組むことを課題とすればいいです。
このように初級者・中級者になるための課題は具体化しやすく、かつ、多くの人にとって共通する課題でもあります。問題は上級者になるための課題です。
上級者や達人のパフォーマンスは「暗黙知」によって支えられています。暗黙知は形式化するのが難しいので、言葉等によって伝えることができません。つまり、初級者・中級者のときのように課題を見つけにくいのです。
なので方針を変え、暗黙知の獲得にフォーカスを当てることになります。
そもそも上達の継続とは「基準設定 → 試行錯誤 → 自己評価」のサイクルを回し続けることです。その過程の中で暗黙知も育っていきます。
難しいのは、一定のレベルまで上達すると、いまよりも上の基準を設定できなくなることです。現状でも問題ないように思えてしまうのです。そうすると自己評価において常に「OK」がでる状態になります。それは言い換えれば「進歩がない」ということ。
僕たちが何かに上達していくためには、適度な「OK」と「NG」が出る基準を、自己設定できなければなりません。今回は次の4つの方法を提案しました。
- 仮の成果・パフォーマンス指標を見つける
- 良いサンプルを大量に観察・模倣して内的な基準を上げる
- 曖昧に表現されたパフォーマンスを小さく分解する
- 1つの技能を小さく分解し、そのとんでもなく高いレベルを基準にする
これらはいずれも現状維持ではなく、より上達することを目指して適度な基準を自己設定するための方法です。もし何かのエキスパートになりたいとお考えでしたら、試してみてください。その中で自分なりのトレーニングの方法も見つかると思います。