行動科学実践の手引き。

人が自由に行動し、自由を謳歌するために、行動科学(行動分析学)の知識と実用的なノウハウを記す。

社会的なルールや法則を活用する視点が自由の足場となる。

僕たち人間は社会的な生き物。

社会的なので、人と何らかの関わりを持ちながら社会的な活動を営みます。また、生き物なので「生存すること」は、通常は意識しないけれども、とても優先度の高い欲求だと言えます。

 この社会的であること、そして生き物であることが、僕たちが自由を失う原因となっています。僕たちは社会的な生き物だから不自由。

一方で、その不自由さは自由を獲得するための足場でもあるのです。

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前回

「自由とは、不自由さからの解放」

であり、

「僕たちは自由という概念を作った瞬間に、
 同時に、そして自動的に不自由という概念も作った」

と書きました。

なので、自由に対する理解を深めるには、その対極の概念である不自由さについて理解しておく必要があります。

僕たちが不自由さを感じるのは、次の2つの”いずれか”に行動が支配されている時です。

  1. ある程度以上の頻度で「自分の意図しないタイミング」で行動せざるを得ない場合
  2. 既に発生している「嫌なことを無くすという動機」で行動する場合、または、「嫌なことの発生を阻止するという動機」で行動する場合

とりわけ、この2つに同時に支配されていると、僕たちは不自由さと共に、強いストレスを感じることになります。詳細は下記の記事を読んでください。

www.behavior-assist.jp

僕たちは何故、自由を失いやすいのか

悲しいかな僕たちは、自由さを失いやすい生き物です。

つまり、それは不自由さの条件である、

  1. ある程度以上の頻度で「自分の意図しないタイミング」で行動せざるを得ない場合
  2. 既に発生している「嫌なことを無くすという動機」で行動する場合、または、「嫌なことの発生を阻止するという動機」で行動する場合

といった状況下に置かれやすいということです。まずはその理由についてお伝えします。

人との関わりによって自由を失う

1つの目の「自分の意図しないタイミングで行動せざるを得ない」ですが、これは主に人との関わりの中で発生します。

僕たちは社会的な生き物です。

この場合の社会とは、その最小単位である家族も含みますが、社会の中で生きていく中で、僕たちはあることを学びます。

それは、

  • 相手に何かを要求し、それに応えてもらうこと
  • 相手から何かを要求され、それに応えること

です。

この2つの行動は、僕たちが社会に参加するための基本であり、これらの行動を実行することは社会的に支持されやすいものです。


具体的には例えば次のようなシーンで、社会的な行動を学びます。

家族 :「ちょっとそこの醤油をとって」
僕たち:醤油を取って渡す
家族 :「ありがとう」

立場を逆にしたケースも見ておきましょう。

家族 :テーブルの醤油の近くに家族が座っている
僕たち:「ちょっとそこの醤油をとって」
家族 :醤油を取ってくれる

こんなやり取りは、社会の中にたくさんありますし、しかもプラスのフィードバックが得やすい行動だったりします。

プラスのフィードバックが得られるからこそ、僕たちは自然とこういった行動を繰り返すようになります。


1つ1つの行動は小さく、シンプルなものかもしれません。

しかし、僕たちのこのようなやり取りは膨大な数になりますし、更にこれらが組み合わさることで相当複雑なやり取りもしています。

社会的な生き物である僕たちにとって、それはあまりにも当り前の行為ですし、自然に、自動的にやってしまうくらい体に染み付いた行為です。

なので「自分の意図しないタイミングで行動せざるを得ない」のは、僕たちが社会の中で生きている証だったりもするわけです。

ただ、その頻度が多すぎるようだと、自身の不自由さを認識し、ストレスに感じるようになってしまいます。

生きなければならないから自由を失う

続いて2つ目の

  • 嫌なことを無くすという動機での行動
  • 嫌なことの発生を阻止するという動機での行動

について見ていきましょう。

詳しく説明するとボリュームが凄いことになるので簡単に説明しますが、嫌なことというのは突き詰めると「生存にマイナスになること」と繋がります。

僕たちは生まれた時から、ある程度は、

”こういうことは生存にマイナスなので避けるようにしよう”

とプログラムされた刺激が存在しています。

身体に損傷を負うようなこと等は、その代表例ですね。


で、僕たちには刺激同士を関連させる能力がありまして、生まれ持った嫌な刺激と、その場にたまたま居合わせた別の刺激とを、関連させて覚えてしまうことができるわけです。

自転車に乗っている時に転んでしまって大怪我をした場合、もともとは嫌なものでなかった自転車が、その経験によって嫌なものになってしまう…といった感じです。

怪我をすることと自転車とが、”同じような刺激”になってしまいます。

 

こういった大小様々な経験を通して、僕たちの人生にはたくさんの「嫌なもの」が生まれます。

そして「生存に有利」という理由があるため、それらを避けることは僕たちにとってとても重要なことになります。


というわけで、僕たちは嫌なものを無視して行動を選択するのが難しいのです。

何か嫌なものが発生したり、嫌なものの発生が予想される場合、どうしてもそれに引きずられるように行動してしまいます。

それには「強制性」があるため、僕たちは不自由さを感じてしまいます。

不自由さがあるから僕たちは自由を得る

相手に要求すること、相手の要求に応答すること。

嫌なものの存在を無視できないこと。

この2つは僕たちが社会的な生き物である以上、逃れることのできない行動の原則でもあります。

そして、それは特に悲観するようなことではありません。

なぜなら、

「不自由さがあるから自由な振る舞いも可能になる」

と考えているからです。

ルールや法則という「足場」

このことを説明するため、喩えとして「重力」を使ってみます。

僕たちは重力によって地面に押し付けられています。空を見上げて上方に好きなように移動したいと思っても、そんな自由はありませんので、不自由と言ってもいいでしょう。

一方で、その不自由さが僕たちに歩行の自由を与えてくれています。

足を踏み込んだ時にしっかりと地面がその力を受け止めてくれるから、好きな方向へと歩いていくための推進力が得られます。

もし僕たちの活動している場所が無重力空間だったら、そして何の遮蔽物も無かったとしたら、それは一切制限のない空間ではありますが、好きな方向に移動するのは非常に難しくなってしまいます。

重力で地面に貼り付けられているからこそ、得られている自由もあるということです。


僕たちの日常における不自由と自由の関係も、これと似たようなものとして考えることができます。

僕たちの生きる社会にはルールや法則、リソース的な制限があります。それらは僕たちに不自由さを感じさせるものでしょう。

でも、その不自由さがあるからこそ、重力の下で好きな方向に歩けるのと同じように、何かの自由を手にしている可能性があります。

つまり、ルールや法則等が僕たちが自由に選択するための「足場」になってくれている…かもしれないということです。

自由とは不自由さを活用することである

例えば、会社等には一般的に報酬を上げるための仕組みがあります。

それが明文化された昇給制度なのか、それとも上司や経営者の個人的な判断なのかは分かりませんが、何らかのルール(報酬が上がるメカニズム)が存在します。

そのルールを活用する視点を持つことができれば、報酬を上げるための選択を取ることも可能です。


反対に、こういったルールには不備が付きものですが、その点についての不平・不満ばかりを言っているのは、重力のせいで地面に張り付かざるを得ない現状に文句を言いながら、歩くという選択肢を捨てているようなものです。

ルールや法則等の不備を認識して改善することは大切かもですが、それらがあるから不自由というわけではないのです。

いや、不自由は不自由なんですが、それは僕たちの自由の足場になる不自由です。


僕たちは様々な社会に所属して生きています。小さなものだと家族という社会から、大きなものだと国でしょうか。

そこには必ず不自由があります。

与えられた不自由という制限を、どう活用するかが自由の醍醐味ではないかと思うのです。その不自由さによって、僕たちのどんな選択が可能になっているかに目を向けてみましょう。

 

ところで、一部、次のような例外もあります。

  • 社会の強制するルールや法則があまりにも厳しすぎて、人として当り前の活動すらも制限してしまうようなケース。
  • あるルールに沿った活動が、別のルールによって制限されている、所謂ダブルスタンダードになっているケース。

このような場合は、頑張っても無駄になりがちなので、とっとと逃げ出してしまいましょう(・∀・)


また、その社会の中で働いているルールや法則が認識できず、まるで無重力空間に放り出されたような状態になることもあります。

一生懸命、目標とするところに移動しようとしているのですが、無重力空間なので上手く力を加えられず、動けない状態。

新しく何かを始めた時は、このような状態に陥ることが多いように思います。

このような時は、その社会で働いているルールや法則について、どうやったら学ぶことができるかを考えてみると良いかと。

ルールや法則が見えてくれば「力のかけ方」が分かりますので、思う通りの成果を得やすくなります。

続き: 

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